ローマ9章

9:1 私はキリストにあって真実を語り、偽りを言いません。私の良心も、聖霊によって私に対し証ししていますが、

9:2 私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。

 パウロは、これから語ることが偽りのない真実であることを示すために、いくつかのことを根拠としてあげています。

一、「キリストにあって真実を語り」

 キリストの前に真実であることを示しました。

二、「良心も、聖霊によって証ししています」

 良心は、その人の判断基準です。ですから、単に知識としてもっているとか、教えを知っているということでなく、その人の内に形成され、持っている考えであり、その人の本音の部分です。ですから、良心による証しは、心からの証しです。しかも、単に当人の証しだけでなく、聖霊による証しであり、神の前に偽りのないものです。

 その証しは、大きな悲しみと心の痛みが絶えずあることです。その理由については、次節以降で記されているように、彼の同胞と言われるイスラエルが神の祝福を受け継ぐことがない現状についてのものです。

 イスラエルがそのようになった理由について、彼は明確に分かっており、後半では詳細に説明しています。神の選びによらなければ、その祝福を受け継ぐことができないのです。しかし、それでも、信じないイスラエルについて平然としていることはできませんでした。彼にとっては兄弟であり、肉による同胞です。愛していたのです。

ローマ

10:1 兄弟たちよ。私の心の願い、彼らのために神にささげる祈りは、彼らの救いです。

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 この後の議論の展開は、神の主権による選びについてです。そして、選ばれた者が信仰によって救われるのです。イスラエルは、信仰によりませんでした。行いによるかのように追求したのです。それは、神様がもうイスラエルを退けたのではなく、異邦人に救いが及ぶためです。イスラエルが選ばれたものであることは変わらないのです。残された者がいるのです。しかし、その時が来れば、イスラエルは祝福に与ります。神様の計り知れない計画によることなのです。

9:3 私は、自分の兄弟たち、肉による自分の同胞のためなら、私自身がキリストから引き離されて、のろわれた者となってもよいとさえ思っています。

9:4 彼らはイスラエル人です。子とされることも、栄光も、契約も、律法の授与も、礼拝も、約束も彼らのものです。

9:5 父祖たちも彼らのものです。キリストも、肉によれば彼らから出ました。キリストは万物の上にあり、とこしえにほむべき神です。アーメン。

 パウロは、イスラエルのために悲しみ、心の痛みがあることを証ししましたが、直接的には、そのことを述べてはいません。そのことは、十章一節に記されていますが、彼らが救われることです。

 そのためには、彼は自分がキリストから引き離され、呪われた者となることもいとわないと思っていました。これは、肉体の死という犠牲を払うよりも遥かに大きな代償です。

 彼がそのように考える理由は、肉によれば、彼らは、イスラエル人であり、選民なのです。そのイスラエルに対して、子とされること、栄光が与えられること、契約、律法、礼拝、約束が与えられていました。

 父祖たちも彼らのものであることが指摘されていますが、これも肉の繋がりです。キリストについても、肉によれば、彼らから出たのです。ただし、キリストは、神です。

9:6 しかし、神のことばは無効になったわけではありません。イスラエルから出た者がみな、イスラエルではないからです。

 このように、神からの祝福を受け継ぐはずのイスラエルがそれを受け継いでいない現状について、神の言葉が無効になったのかという疑問に対して、そうではないことを示しました。

9:7 アブラハムの子どもたちがみな、アブラハムの子孫だということではありません。むしろ、「イサクにあって、あなたの子孫が起こされる」からです。

9:8 すなわち、肉の子どもがそのまま神の子どもなのではなく、むしろ、約束の子どもが子孫と認められるのです。

 肉による子孫がそのままイスラエルという神の選びの民であることはないからです。アブラハムには、多くの子がいましたが、イサクからその子孫が起こされることが約束されたのです。約束の子が子孫なのです。

9:9 約束のみことばはこうです。「わたしは来年の今ごろ来ます。そのとき、サラには男の子が生まれています。」

 イサクの誕生は、神様の約束に基づくものです。神様は、予めそのことを告げることで、これが約束の子であることを示されました。

9:10 それだけではありません。一人の人、すなわち私たちの父イサクによって身ごもったリベカの場合もそうです。

9:11 その子どもたちがまだ生まれもせず、善も悪も行わないうちに、選びによる神のご計画が、

9:12 行いによるのではなく、召してくださる方によって進められるために、「兄が弟に仕える」と彼女に告げられました。

9:13 「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と書かれているとおりです。

 リベカは、双子の兄弟が誕生する前に、兄が弟に仕えるという御告げを受けました。その例から、神の計画は、その人の行いにはよらず、神によって事が進められることを明らかにしています。

9:14 それでは、どのように言うべきでしょうか。神に不正があるのでしょうか。決してそんなことはありません。

 このように、特定の者だけを選ぶことは、不正なことだろうかと問うています。人がどんなに願い努力しても神は選ばれないのです。

 また、神は、公平であるべきだという考えからすれば、不正です。

 しかし、神は、不正ではないのです。

9:15 神はモーセに言われました。「わたしはあわれもうと思う者をあわれみ、いつくしもうと思う者をいつくしむ。」

「あわれむ」→契約にたいする忠誠。感情の問題ではなく、契約を果たすことです。

「いつくしむ」→同情という深い感受性を伴った応答をすること。この箇所にのみ使われています。ヘブル語では、H7355 「大事にする」原意は、胎です。胎児を大切にするように、大事にすることです。

9:16 ですから、これは人の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。

 神様が人を契約に基づいて徹底的に恵むことや、特別な存在として大事にすることは、人の願いや努力によらないのです。事は、神によります。

9:17 聖書はファラオにこう言っています。「このことのために、わたしはあなたを立てておいた。わたしの力をあなたに示すため、そうして、わたしの名を全地に知らしめるためである。」

9:18 ですから、神は人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままに頑なにされるのです。

 また、イスラエルがエジプトから出る時、パロが頑なになりましたが、それは、神様がパロを頑なにしたのであり、エジプトを打つという大きな業によって、その力を示し、全地に神様の名を知らしめるためでした。

 このように、あわれむことも、頑なにすることも、神様の思いのままなのです。

 福音を聞いて信じない人の中には、自分が信じないことについて、このことを言い訳にする人がいます。自分は選ばれていないので、信じないという態度を取るのです。しかし、選ばれているかどうかは、人には分からないことです。それを勝手に決めつけるのは、言い訳でしかありません。

9:19 すると、あなたは私にこう言うでしょう。「それではなぜ、神はなおも人を責められるのですか。だれが神の意図に逆らえるのですか。」

 人のいわゆる救いが、神の定めによるのであり、人の何ものにもよらないことが示されましたが、神に逆らうことが神の定めであるならば、なぜ神は、人を責められるのですかという疑問に行き着きます。

9:20 人よ。神に言い返すあなたは、いったい何者ですか。造られた者が造った者に「どうして私をこのように造ったのか」と言えるでしょうか。

9:21 陶器師は同じ土のかたまりから、あるものは尊いことに用いる器に、別のものは普通の器に作る権利を持っていないのでしょうか。

 それに対して、人は、神によって造られた者であり、神様が人をどのようにしようとも人は神様のなさることに異を唱える事はできないのです。ちょうど陶器師が自分の思いのままに陶器を作るの同じです。陶器師にはその権利があり、陶器は、自分は陶器師が考えているような器になりたくないということができないのと同じです。

 ここには、神様の主権が示されています。人は、神の存在を人に幸を与える方のように捉えていて、人に対して絶対的な主権を持っている方として考えることが難しいのです。自分を神としているので、自分の上に主権を持つ方を認めることができないのです。

9:22 それでいて、もし神が、御怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられたのに、滅ぼされるはずの怒りの器を、豊かな寛容をもって耐え忍ばれたとすれば、どうですか。

 神様の選びによって滅びに定められていた人すなわち「滅ぼされるはずの怒りの器」に対して、神様は御怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられたのに、そのような器に対しても、豊かな寛容をもって耐え忍ばれる方に対して、人は言い逆らうことはできないのです。怒りの器に対して、機会を豊かに備えられるからです。

9:23 しかもそれが、栄光のためにあらかじめ備えられたあわれみの器に対して、ご自分の豊かな栄光を知らせるためであったとすれば、どうですか。

 怒りの器に対して深い忍耐を持たれた方が、あわれみの器に対して忍耐されたとすれば、神の栄光の偉大さがいよいよ明らかになります。

・「あわれみ」は、神の契約に対する忠誠によって定義される恵みです。神の側からも、人の側からも契約に対する忠誠を現すことです。神の側からは、契約に基づく恵みとして表され、人の側からは、誠実として現されます。あわれみの器という場合、神様が契約によって救いの祝福に与らせた器のことです。信じる者に永遠に命を与えるという契約です。それは、救いの立場を約束するだけでなく、御国において相続人として報いを受けることも含みます。

9:24 このあわれみの器として、神は私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです。

 あわれみの器は、神の召しによります。その召しは、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださいました。

9:25 それは、ホセアの書でも神が言っておられるとおりです。「わたしは、わたしの民でない者をわたしの民と呼び、愛されない者を愛される者と呼ぶ。

9:26 あなたがたはわたしの民ではない、と言われたその場所で、彼らは生ける神の子らと呼ばれる。」

 ホセア書では、既にこのことが預言されていました。

9:27 イザヤはイスラエルについてこう叫んでいます。「たとえ、イスラエルの子らの数が海の砂のようであっても、残りの者だけが救われる。

9:28 主が、語られたことを完全に、かつ速やかに、地の上で行おうとしておられる。」

9:29 また、イザヤがあらかじめ告げたとおりです。「もしも、万軍の主が、私たちに子孫を残されなかったなら、私たちもソドムのようになり、ゴモラと同じようになっていたであろう。」

 しかし、イスラエルに関しては、救われる者が少ないことがイザヤによって預言されました。救われるのは、残りの者だけです。それが確かなこととして示されています。また、主が残された者が救われ、主がその残りの者を残されなかったら、ソドムやゴモラのように完全に滅びるのです。

9:30 それでは、どのように言うべきでしょうか。義を追い求めなかった異邦人が義を、すなわち、信仰による義を得ました。

 異邦人は、義を追い求めていたわけではありません。彼らは、神も、神の言葉も知らず、ある者は、偶像の神々に仕えていました。しかし、彼らは、召されたのです。義を得ました。この義については、次節のイスラエルとの対比で考えると、いわゆる救いの立場を持つことだけでなく、歩みが義とされることを含みます。「義を追い求める」という表現から、それが、神がキリストをよみがえらせたと信じた時義とされる瞬間のことだけでなく、生涯義の実を結ぶことを表しています。義とされることは、御霊により歩むことで実現します。三十三節の「この方に信頼する者は失望させられることがない」という聖句もそのことを表しています。

 それは、信仰が要求されます。肉によって御心を行おうとしても行うことはできないからです。

9:31 しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めていたのに、その律法に到達しませんでした。

 イスラエルは、神を信じていました。そして、義とされることを追い求めていました。しかし、彼らは、律法の義を獲得できなかったのです。

9:32 なぜでしょうか。信仰によってではなく、行いによるかのように追い求めたからです。彼らは、つまずきの石につまずいたのです。

9:33 「見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。この方に信頼する者は失望させられることがない」と書いてあるとおりです。

 その理由は、彼らは、行いによるからのように追い求めたからです。彼らは、神の前に義なる者として歩んでいると考えていました。キリストの御在世当時、彼らはメシヤを必要としませんでした。つまずきの石につまずいたのです。

 さらに、彼らは、行いによる義を追求したのですが、肉によっては、それは、実現できないことを悟らなかったのです。キリストによって義とされ、義は、肉の行いではなく、御霊によることを信仰によって受け入れ、信じて実を結ぶ必要があったのです。

 ニコデモに対しても次のことが語られています。

ヨハネ

3:5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。

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 神の国に入るとは、単に救いの立場を持つことではなく、義の実を結び報いを受けることです。ニコデモは、神を信じていました。しかし、彼には、神の前に義の実を結ぶということがどういうことかわからなかったのです。律法を行おうと思っても、神の前に義とされるような行いができなかったのです。悩んでいました。彼は、異邦人とは違い、神の国の相続ということを考えており、資産としての報いを受けることを求めていたのです。

 この方に信頼する者は、失望させられないのです。御国を望みとして歩む者にとって、報いがないことは失望です。しかし、この方がその人のうちにあって業をなし、実を結ぶならば、報いは間違いないです。そのことを信じることが「信頼する」ことなのです。

ガラテヤ

2:20 もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。

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 キリストの愛を信じることで、私は、もはや死に、キリストが私の内に生きておられることを認めるのです。キリストが私の内で御業をなしてくださいます。